富山県 黒部市 黒部観光ガイド(生地まち歩き)

富山 生地 観光 歴史めぐり

かつて生地は「新治村」と呼ばれ、大きな湖が広がっていました。天然の漁港でもあった湖は、1327年の大洪水により泥土に埋まり、集落は海中に沈んでしまいました。古い歴史を持つ生地のまちには、さまざまな言い伝えや旧跡が残っています。往時に思いを馳せ、生地のまちの風情に身を浸してみませんか。
経妙寺(清水庵)
松尾芭蕉が北陸行脚の際に立ち寄ったことで知られているお寺です。貞享の頃(1684~1688年)、現在の経妙寺は清水庵という日蓮宗の小さな庵があり、庵主は俳句を楽しんでいたそうです。元禄2年(1687年)7月、芭蕉翁が清水庵にも寄られ、大いに正風体の発句を奨励されたといわれています。
庭には、国の名水百選に選ばれた「清水庵の清水」があり、こんこんと湧き出る清らかな水を見て、芭蕉翁が道場の名を清水庵と命名されたという言い伝えがあります。
※参考文献:平成元年発刊「ふるさと生地の歴史点描」
専念寺(梅澤山専念寺)
桓武平氏の秩父氏の流れを汲む畠山庄司重能(武蔵国)の子、次郎重忠(鎌倉幕府の御家人)を父に持つ証性房は関東二十四輩(親鸞聖人の直弟子二十四人の意味)第八番蓮生寺(福島県白川郡柵倉町)を開基。その証性房の子、畠山信了が入善町上飯野臼ノ森で専念寺を開基しました。
その後、黒部川の氾濫により生地浦に寺院を移しました。
※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」
新治公園・新治神社
新治神社は旧記によれば、おおよそ天智天皇の時代、700年前後の創建であるといわれています。祭神は、三神合祀にして国史見在の各社であります。大変古い歴史をもった神社で、現在の拝殿は明治38年に新しく建てかえられたものです。
新治公園は、大正6年(1917年)に大正天皇行幸記念として総事業費を町費で支出し造成された、大変な事業でした。8月1日に放生祭があり、湧水池であった月見嶋の池で稚鯉等を放し、魚族の繁殖を祈願します。
※参考文献:平成元年発刊「ふるさと生地の歴史点描」、平成11年発刊「生地再発見」
龍泉寺
真宗本願寺白雲山龍泉寺は、元は真言宗高野山金剛峯寺の末寺として、寛喜2年(1230年)に越中国新川郡臼森袖沢池のほとりに建設されました。それが天正5年(1577年)に兵火のために焼失、【天正12年(1584年)天正13年(1585年)】に顕如上人の法号を受けて、真宗本願寺の末寺として芦崎村に本堂を再建されました。
龍泉寺には龍の彫刻が三つあり、中央にある素朴で古ぼけた一刀彫りの龍は、左甚五郎の作と伝えられています。
※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」
生地の水神社(十二所社)

生地の水神社には、水波(みずは)能売神(のめのかみ)が祀られています。 この水神社は、はじめ生地新にありましたが、今は生地芦崎にある十二所社境内社となっています。

参考文献:蛇沢道雄氏記

薬師堂

薬師堂は別名庚申様(おこしんさま)と言われ、生地温泉たなかやの守り神ともなっています。
庚申は、中国から入ってきた思想ですが、黒部川扇状地の村々に庚申塔が散在し、現在も庚申講が開かれています。
※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」

 

生地温泉たなかや
生地温泉はその昔、戦国武将上杉謙信によって発見されたと言われています。 その後、永禄3年申の年、真言宗の僧が浴場を開設しましたが、天保年中に地籍論争が起こりやむなく廃絶に至りました。
明治44年、庚申仏のお告げにより、庚申仏を祀り浴場を再建しました。霊験泉であることを聞き多くの人々が訪れ、奇跡的に病が治る者が続出し、その名が益々世に広まることになったそうです。
また、たなかやは分家にあたる詩人、田中冬二が夏休みを過ごしていた旅館でもあります。館内には田中冬二資料室や、郷土生地を想い読まれたという「ふるさとにて」の詩碑が玄関横に遺されています。
参考文献:平成元年発刊「ふるさと生地の歴史点描」、蛇沢道雄氏記

富山県黒部市生地吉田新230
TEL 0765-56-8003 / FAX 0765-57-0343
たなかやHPはこちら
謙信手植えの松
上杉謙信が自らの手で植えて行ったと言い伝えられている黒松。また、「庚申松」とも呼ばれています。
戦国時代、越後から生地に来た僧侶姿の上杉謙信が、病気のため危篤状態になったとき、「ここに湧き出る霊水につかれば治る」という新治の神のお告げをうけました。神の教えの通り、その霊水で入浴し、何ヵ月か滞在している内に病気はすっかり治ったそうです。
謙信は大変感謝し、新治神社へ御礼参りをすると共に、松を植えて帰って行ったと言われています。
※参考文献:平成元年発刊「ふるさと生地の歴史点描」
生地台場跡

黒部川河口の南、越湖浜の南西隅にある砲台跡で、県指定史跡となっています。もとは富山湾で最も突出した生地鼻灯台の近くにありました。嘉永3年(1850年)8月に加賀藩が外国船の来訪にともない、海防のため、海辺に大筒台場を築造することを決定したことを受けて設置されたもので、越中国では現在の高岡市・新湊市・生地に設置されました。
平成元年(1989年)台場の発掘調査が行われ、復元されました。3カ所の内、現存しているのは生地のみです。
※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」

航路標識生地鼻灯台

戦後、漁船の近代化による遠距離化などから建設が熱望され、2年間にわたる国に対する強い働きかけの後、昭和26年2月に竣工しました。
燈台の高さは、31メートル、光の強さは100ワット電球で約2800個分、光の届く距離は16海里(30km)。今では県内で一番古い沿岸燈台となっています。白黒に塗り分けてあるのは、燈台の背景にある高い山々に雪が積もっても、確かめられるようにするためです。
※参考文献:平成元年発刊「ふるさと生地の歴史点描」、蛇沢道雄氏記

北洋の館
生地まち歩きの休み処。 北洋漁業の歴史や漁船位置測定器などが展示されており、漁船漁業の変遷をたどれるようになっています。
また、黒部川扇状地産コシヒカリ米ぬかと北海道産サンマを使用した「恵比須サンマのぬか漬」等を直売しており、漁師が選んだ塩干・冷凍魚介類を安く購入することができます。

富山県黒部市生地芦崎字下浦330(丸中水産株式会社)
TEL 0765-56-9138 / 開館時間 8:30~17:00 / 定休日 日曜
料金 入館無料、体験コースは材料費500~1000円
北陸自動車道 黒部I.C.より車で15分
北洋の館HPはこちら
槍が崎灯明台
大正15年に再建された鉄骨の鉄塔で20mの高さがあります。
由来は、享徳3年(1454年)8月の暴風で多くの漁船が遭難しかけた際に一筋の光明が見え、それを頼りに陸へたどり着くことができました。しかし、不思議なことに火の気はなく、後にその光明は新治神社の霊火であったことがわかり、その霊火に対する報恩と今後の海の目印に常灯明を設けたといわれています。
また、その霊火が秋のタイマツ祭の由来でもあります。
※参考文献:平成元年発刊「ふるさと生地の歴史点描」
西の宮
「えびす社」として平安時代には既に篤く信仰されていた兵庫県西宮神社がその起源と考えられ、江戸時代中期、大阪からの北前航路の開発に伴いえびす信仰がこの地にもたらされたのではないか、あるいはその昔、神人としての人形操り芸能集団「傀儡師」が全国に広めたとも云われています。
現在もお祭りが毎年7月末の2日間に開催され、1日目は、恵比須、大黒の神様を乗せて満艦飾に飾り立てた船のパレードや、花火が打ち上げられます。2日目は生地の伝統芸能であるしばんばの町流しや子供の笛太鼓による祭り囃子などが行われます。
片持式旋回橋 生地中橋
橋の片方を基点に全体が回転する旋回可動橋。日本では初めて作られ、世界でも珍しい橋です。平成18年「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれました。
昭和57年にできたもので、漁船が通る時に長さ38.4m、幅7m、重さ307tの橋体が油圧で持ち上がり回転します。橋の原型考案者は、レオナルド・ダビンチと言われています。
現在の旋回橋の前は、昭和35年に動力昇降可動式の橋、その前は鉄筋コンクリートの橋でした。
魚の駅「生地」
くろべ漁業協同組合の直販施設。とれたて館では、とれたて新鮮な魚や、塩物、水産加工品、黒部の特産品が販売されています。観光客がおみやげを買いに訪れるのはもちろん、新鮮な魚が手に入るとあって、地元の方も訪れます。
できたて館は新鮮な魚を味わえる食事処。航海灯では自分で魚を焼くこともできます。

富山県黒部市生地中区265
『できたて館』
・炭焼きレストラン 航海灯
TEL 0765-57-3567 営業時間 11:00~17:00
・寿司居酒屋 番家
TEL 0765-57-0430 営業時間 17:00~22:00
・テイクアウトコーナー
TEL 0765-57-3567 営業時間 10:00~18:00
『とれたて館』
TEL 0765-57-0192 / FAX 0765-57-0585
営業時間 9:00~18:00
魚の駅「生地」HPはこちら

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